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【組織・マネジメント】明暗を分けたもの~東日本大震災から見えてくるもの~

大川小学校と戸倉小学校の違い

 9月11日、東日本大震災から9年半ということで様々な形で慰霊が行われていました。私も2度ほど、南三陸町と(旧)大川小学校を訪れる機会がありました。来年3月、10年目の様子を見に行きたいと思っています。(コロナの状況を見ながらですが…)

 2度目に(旧)大川小学校を訪れたときは、お子さんを津波で亡くされた父親に案内をしていただき、話を聞きました。知りたいのは、何故あのような惨事となってしまったか、防ぎようはなかったのかということです。学べることがあれば、自分の仕事にも生かしていきたいという思いもありました。

 翌日は、対照的な戸倉小学校の話を聞くことができました。震災当時、石巻市の大川小学校は、大津波にのみ込まれ、児童108人のうち84人、教職員は13人のうち10人が行方不明となりました。一方で、南三陸町の戸倉小学校は、高台に避難し、校内にいた全児童・全教職員が助かっています。

 戸倉小学校は、鉄筋三階建ての校舎の屋上を避難先に決めていたそうです。ところが、東日本大震災の2日前の9日に大きな地震があり、「避難先が校舎の屋上でよいのか」ということが職員会議で議題になったそうです。先生方は、地震の大きさから従来のマニュアル通りに屋上へ避難するのではなく、念のために、小学校から離れ、さらに高台へと、児童たちを非難させたそうです。このマニュアルの見直しという判断が、被害者を出さない結果につながったそうなのです。

 すごいと私が思ったのは、翌10日に全児童を対象にした避難訓練を実行したことです。そして、東日本大震災当日、地震の揺れが収まったあと、校内にいた全児童91人を校庭に集め、午後3時ころ、教職員を含む全員が高台に避難しました。途中、隣接の保育所の園児21人を引率していた保護さんたちも一緒に高台に避難して助かったそうです。

 その後、津波で校舎の屋上まで水没し、保育所も波に飲まれました。高台に避難していなければ、全児童、園児全員が教職員とともに命を落としていただろうと言われています。児童74人が犠牲になった大川小を上回る犠牲者が出ていたかもしれません。

 このような違いはどこから来るのかととても気になりました。色々調べた結果見えてきたのは、2校の小学校の教職員の意識の違いです。組織力の違いと表現した方が良いかもしれません。大川小学校関係者は多くの方が亡くなっており、明確な理由は分かりませんが、平和な日々への安心感、迅速な判断や指示の欠如、危機意識の希薄化等を感じました。管理職のリーダーシップも大きいかもしれません。

 一方の戸倉小学校では、改善しようとする意見が積極的に発信され、大切なことは皆ですぐやろうという能動的な職場の雰囲気や協働性の高さ。上(管理職等)からの指示だけに依存して動くような組織ではなく、教職員全員が危機管理に対して高い意識をもていたとも感じました。もう一方は、今まで大丈夫だったからこれからも大丈夫だろう。何も苦労して変える必要はない、誰か(管理職等)が決めてくれるだろうという受動的な雰囲気を感じてしまったのです。

 関係者の言葉や色々な資料を読んだりしてみて、このようなことが透けて見えてきました。大川小学校で集団から離れ、裏山に一人で避難して助かった先生は、前任校で安全指導を担当していたそうで、しかも、前任校ではマニュアルを変えた責任者だったそうです。その前任校は、その新しいマニュアルのお陰で沢山の命が助かったそうです。

 自分の子どもを津波で亡くした父親は、何故このようなことが起きたのか、それぞれの立ち場で考えてほしいと涙ながらに語ってくれました。この涙を、失われた沢山の命を無駄にしてはなりません。

 

※本文は、特手の関係者の方々を誹謗中傷するものではありません。大川小のご遺族の方の願いである「今回のことから学び、繰り返さないでほしい」という願いに対し、教育に関わるものとして、見聞きした中で感じた学校の在り様の違いにつて考察したものです。

改めてお亡くなりになった皆さんのご冥福をお祈り申し上げます。

 

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